以前、写真撮影のために訪れた鯛生金山。当時訪れた時からこの場所を動画に撮ってみたいな、と思っていた。
YouTubeで撮影するために、事前に取材をさせていただけないかと思い、Webで施設のメールアドレスを調べ、連絡をしてみた。唐突なお願いにも関わらず、とても快く受け入れてくださった。それどころか、大変丁寧に案内までしていただいた。
実際に現地を訪れ、お話を伺い、3日ほどかけて撮影をしていると、この場所がとても気に入ってしまった。しかしYouTubeではどうしても映像を中心に表現したくなってしまい、細かい説明まではできない。それで取材で伺った時に聞いたお話や出来事など、記録としてこのブログにまとめておくことにした。
2024年 12月 取材日のこと
施設を訪れると、鯛生金山の山口所長が案内してくれた。
話は逸れるけど、鯛生金山のある中津江村の方達は、外から来る人に対してとても好意的に接してくれるように感じる。2002年のワールドカップでカメルーンのチームが滞在した際に、熱烈に歓迎をしたことで全国的に報道された姿は印象的だった。
鯛生金山の歴史や中津江村についてのお話を伺っていると、その受容力の根源は、金鉱の町として外国や県外から来た人々と早くから交流していた村の歴史にあるのではないか、と、どうしても考えてしまう。実際に、そういうお話も聞くことができた。
最初に、山口さんに鯛生金山についてのお話を伺った。
地底博物館 鯛生金山。大分県の北部、日田市 中津江村にある。1898年に採掘が始まった金鉱の跡地を利用した施設だ。
山間の小さな村だけど、鯛生金山の施設の中には、道の駅(物産の販売)や、郵便局、食堂も包含されている。地域の方達も立ち寄れる、村の中核的な施設になっている。
ちなみに、施設では「砂金取り体験」が人気で、休日は家族連れで賑わっている。実は我が家の娘も以前から「砂金とりがやってみたい」と言っていた(連れて行かねば)。
金鉱としては最盛期には一時、国内でも最大の産出量を誇る金山となった。当時掘られた坑道をつなぎ合わせると、総延長は110キロにもなる。
坑道の最深部は540mもあり、東京タワーがすっぽりと収まってしまう深さだ。そのうち現在、観光用として公開されている坑道は、わずか800m 程度しかない。それでもじっくり見て回れば、20〜30分は要する広さで、充分な迫力を感じる。
簡単に言えば、巨大な金鉱だった。大正時代から昭和初期にかけ、小さな村だったこの場所に金鉱を中心として人が集まり、様々な施設が建てられ、鉱山町として活気を呈した。正直なところ、実際に中津江村を訪れてみても、当時の様子を伺い知ることは難しい。
最盛期にはこの小さな村に 3,000人もの人が各地から集まり、病院や小学校、クラブハウス、飲食店や映画館まで立ち並んだという。しかし、当時の様子を窺い知れるような名残は、坑道を別にすれば、それほど多くは現存していない。
最盛期、それは1930年前後(昭和初期)のことなので、今から100年ほど前の話になる。建物は朽ち、当時そこにあった物のほとんどは杉山の下に埋もれてしまった。人口も減少し、現在の村民は600人足らずとなった。
坑道(金鉱跡)を歩いていると、坑夫たちで賑わった100年ほど前の記憶が蘇ってくるようだ。現在の姿とのギャップが大きいだけに、一人で長い時間坑道を歩き、外に出てくると奇妙な感覚がした。
中津江村の皆さんは、この鯛生金山をとても大切に守り、管理されている。その熱意は施設の方のお話を聞いていると、強く伝わってくる。
どうしても長くなってしまうので、取材記の続きは次のブログで掲載することにする。